約 164,484 件
https://w.atwiki.jp/bokuserve/pages/731.html
セイバー: 陸遜 伯言 ランサー: 関羽 雲長 アーチャー: 祝融夫人 ライダー: 劉備 玄徳 アサシン: バーサーカー: キャスター: 賈詡 文和 エクストラ:
https://w.atwiki.jp/taisendoujin/pages/14.html
https://w.atwiki.jp/tsundereidayon/pages/522.html
孔明「おまえの処刑が決定したぞ」 馬謖「ああ」 孔明「馬鹿な事をしたな」 馬謖「いや。後悔はしていない」 孔明「心底、馬鹿野郎だな」 馬謖「おまえに比べればな」 孔明「・・なんであの時云うこと聞いてくんなかったんだよぅ!」 馬謖「間違った判断だったとは思わない」 孔明「ばか・・っ! ばかバカぁぁっ!」 馬謖「泣くなよ」 孔明「だ・・って・・」 馬謖「かわいい顔が台無しだぞ」 孔明「ば、ばかっ! 死んじゃえっ!」
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/19.html
<魏 251年> <蜀漢 251年> <呉 251年> 251年 嘉平三年(魏) 皇帝 曹芳(魏) 皇后 甄氏(文帝皇后の甄氏の兄甄儼の孫娘)→(崩御) 皇太子 三公 太傅:司馬懿(前太尉)→(死亡) 太尉:王淩 (前司空) →司馬孚(前司空) 司徒:高柔(前司空) 司空:(空位)→司馬孚(前尚書令)→鄭沖(前光祿勳) 九卿 録尚書事:→司馬師(撫軍大將軍) 光祿勳:鄭沖→ その他の要職 大将軍: 車騎將軍:郭淮(前征西將軍) 驃騎將軍:孫資(特進) →(死亡) 衛将軍: 地方官 主な事件 三年春正月、荊州刺史の王基、新城太守(陳泰)[州泰]が吳を攻める。勝利を収め、降伏者は數千人《三国志魏書三少帝紀》 二月,南郡に夷陵縣を置き、降伏者を居住させた《三国志魏書三少帝紀》 三月、尚書令の司馬孚を司空と為す《三国志魏書三少帝紀》 四月甲申、征南將軍の王昶を征南大將軍と為す《三国志魏書三少帝紀》 四月壬辰,大赦《三国志魏書三少帝紀》 四月丙午、太尉の王淩が帝を廃して楚王曹彪を立てようとしていると聞いて、太傅の司馬懿は王淩を討ちに東征する。《三国志魏書三少帝紀》四月、魏の司馬懿、太尉の王凌がクーデターを企てたため王凌を攻めて逮捕し、自殺させた。王淩は呉軍が徐水を堰き止めたのをきっかけに挙兵しようと賊討伐の上奏をしたが聴許を得られなかった。そのため将軍の楊弘を兌*州刺史の黄華に派遣し協力を要請したが、楊弘と黄華は司馬懿に密告したので司馬懿は大軍を百尺に進めた。その前に司馬懿は王淩を許すと宣言し、尚書の王広(王淩の子)に説諭の手紙を書かせた。王淩は追い詰められたことを悟り、司馬懿が丘頭に到着すると後ろ手に縛って一人出迎えた。司馬懿は王淩に六百の兵をつけて都に送還したが、王淩は項に着いたところで毒を飲んで自殺した《三国志王淩伝》 五月甲寅、王淩自殺《三国志魏書三少帝紀》 六月、曹彪は死を賜う《三国志魏書三少帝紀》 秋七月壬戌、皇后の甄氏が崩ず《三国志魏書三少帝紀》 七月辛未、司空の司馬孚を太尉と為す《三国志魏書三少帝紀》 七月戊寅、太傅の司馬懿が薨ず。衛將軍の司馬師を撫軍大將軍・錄尚書事と為す《三国志魏書三少帝紀》 七月乙未、懷甄后を太清陵に葬る《三国志魏書三少帝紀》 七月庚子、驃騎將軍の孫資が薨ず《三国志魏書三少帝紀》 十一月、有司が、諸功臣で太祖の廟に祀られている者を官位の順位をもって改めるようにと奏上し、太傅の司馬懿が功高く爵も尊いので、最上となった《三国志魏書三少帝紀》 十二月、光祿勳の鄭沖を司空と為す《三国志魏書三少帝紀》 誕生者 死没者 王淩(王允の甥・自殺) 司馬懿:太傅 孫資:驃騎將軍・特進
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/104.html
<魏 232年> <蜀漢 232年> <呉 232年> 232年 太和六年(魏) 皇帝 曹叡(魏) 皇后 毛氏(明悼毛皇后・河內人) 三公 太傅:(空位) 太尉:(空位) 司徒:(空位)→董昭(前衛尉) 司空:陳群(前鎮軍大將軍) 九卿 衛尉:董昭→ その他の要職 大司馬:(空位) 大将軍:司馬懿(前驃騎將軍) 驃騎大將軍:→ 車騎將軍:公孫淵(遼東太守) 地方官 主な事件 六年春二月,詔曰:「古之帝王,封建諸侯,所以藩屏王室也.詩不云乎,『懷德維寧,宗子維城』.秦、漢繼周,或彊或弱,俱失厥中.大魏創業,諸王開國,隨時之宜,未有定制,非所以永為後法也.其改封諸侯王,皆以郡為國《三国志魏書明帝紀》 三月癸酉、東巡する。通り過ぎた地域で高年にあるもの、独り身のものを問い穀帛を賜う《三国志魏書明帝紀》 三月乙亥、月が軒轅大星を犯す《三国志魏書明帝紀》 夏四月壬寅、許昌宮に行幸する《三国志魏書明帝紀》 四月甲子、初進新果于廟《三国志魏書明帝紀》 五月、皇子曹殷が薨,追封して安平哀王と諡する《三国志魏書明帝紀》 秋七月、衛尉の董昭を司徒とする《三国志魏書明帝紀》 九月、摩陂に行幸する。許昌宮を治す。景福、承光殿を建てる《三国志魏書明帝紀》 冬十月、殄夷將軍の田豫の軍が吳の將である周賀を成山に討つ。周賀を殺す《三国志魏書明帝紀》 十一月丙寅、太白が昼見える。翼に流星があった。太微の近くに將星が上がる《三国志魏書明帝紀》 十一月庚寅、陳思王曹植が薨ず《三国志魏書明帝紀》 十二月、許昌宮に還る《三国志魏書明帝紀》 誕生者 死没者 曹植:陳思王
https://w.atwiki.jp/gball/pages/1122.html
前へ|次へ クリア条件:EDを見る(シナリオ・君主は任意) 開始時間:2013/11/04(月) 15 14 15.17 終了時間:2013/11/08(金) 23 25 14.23 参加人数:1 前作発売から約7年後突如発売された続編 ゲームボーイカラーも出ているので当然カラー対応 前作はアレンジ移植だったのに対しこれは三国志IIの移植 基本的なシステムは変わりません 主1雑感 こいつはどえらい三国志です なにがすごいって戦場での寝返りっぷりがすごい 忠誠95とかでも寝返るヤツ続出 その中でもやはり別格だったのは呂布 寝返った次の瞬間敵の寝返り工作によってまた裏切るという 1戦闘2寝返りという奇跡のプレイに大爆笑でした まさに人中の呂布と言えるでしょう・・・ 最後の戦闘、顔良に裏切ってもらって袁紹を撃破 ようやく統一 エンディング メーカーロゴで終了
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/93.html
<魏 256年> <蜀漢 256年> <呉 256年> 256年 正元三年→甘露元年(魏) 皇帝 曹髦(魏高貴郷公) 皇后 卞氏(父は卞隆) 皇太子 三公(魏) 太傅:→司馬孚(前太尉) 太尉:司馬孚→高柔(前司徒) 司徒:高柔→鄭沖(前司空) 司空:鄭沖→盧毓(前尚書左僕射) その他の要職(魏) 錄尚書事:司馬昭(大将軍) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:司馬昭(大都督を加号) 驃騎将軍:王昶 車騎将軍:? 衛将軍:胡遵→(死去) 地方官 雍州刺史:王経 主な事件 甘露元年春正月辛丑、青龍が軹縣の井戸の中に見られた。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 正月乙巳、沛王の曹林が薨ず。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 二月丙辰、帝は太極東堂で宴を開き、侍中荀顗、尚書の崔贊、袁亮、鍾毓、給事中中書令の虞松等と禮典を講述し、帝王の優劣之差について問うた。帝は夏の少康を慕っていた。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦に引く魏氏春秋》 二月丁巳、曹髦は講義が終わってから侍中荀顗、尚書の袁亮等と議した。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦に引く魏氏春秋》 夏四月庚戌、大將軍の司馬昭は兗冕の服、赤舄の副を賜う。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 四月丙辰、帝は太學に詣で、諸儒に問うた。易博士の淳于俊が対して答えた。問答をし淳于俊が答えられないものもあった。易についての講義が終わって、また尚書に講義するよう命じて帝は問うた。博士の庾峻が答え、問答となった。また礼記についても質問がされ、博士の馬照が答えた。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》。帝は常に中護軍の司馬望、侍中の王沈、散騎常侍の裴秀、黃門侍郎の鍾會等と東堂で講宴し文論を戦わせた。裴秀を儒林丈人、王沈を文籍先生と呼び、司馬望、鍾會もまた各々名號があった。帝はせっかちで、お召しの際は速くと急かした。裴秀等は內職で問題なかったが、時に司馬望は外にあり、特別に追鋒車を与えた。虎賁卒五人が集會のたびに走り回った。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦に引く傅暢の晉諸公贊》 正元三年五月、鄴及び上谷、上洛で並んで甘露が降ったと上表があった。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 夏六月丙午、甘露と改元する《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 六月乙丑、青龍が元城県の井戸の中に見られた《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 秋七月己卯、衛将軍の胡遵が薨ず《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 七月癸未,安西将軍の鄧艾が蜀の姜維を上邽に大いに破る。詔を出して大いに祝す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 八月庚午、大将軍の司馬昭に大都督の号を加え、奏事不名を許し、假黃鉞を与えた《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 八月癸酉、太尉の司馬孚を太傅と為す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 九月、司徒の高柔を太尉と為す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 冬十月、司空の鄭沖を司徒、尚書左僕射の盧毓を司空と為す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 誕生者 死没者 胡遵(衛将軍)
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/108.html
<魏 236年> <蜀漢 236年> <呉 236年> 236年 青龍四年 (魏) 皇帝 曹叡(魏) 皇后 毛氏(明悼毛皇后・河內人) 三公 太傅:(空位) 太尉:司馬懿(前大将軍) 司徒:董昭(前衛尉)→(死亡) 司空:陳群(前鎮軍大將軍)→(死亡) 九卿 衛尉: その他の要職 大司馬:公孫淵(樂浪公・前車騎將軍) 大将軍: 驃騎大將軍:→ 車騎將軍:→ 地方官 主な事件 四年春二月、太白がまた昼に見え、月が太白を犯す。又軒轅を一星が犯し、太微に入り出た《三国志魏書明帝紀》 夏四月、崇文觀を置く。よく屬文の者を徴して之に充てる《三国志魏書明帝紀》 五月乙卯、司徒の董昭が薨ず《三国志魏書明帝紀》 五月丁巳、肅慎氏が楛矢を献上する《三国志魏書明帝紀》 六月壬申、詔して「有司は刑罰について議し獄での死を緩和せよ。務めて寬簡にするように。廷尉及び天下の獄官に令するに、死罪にあるものは獄に具えてから裁定せよ。謀反人及び殺人者にあらざれば、その親によく話して治めよ。恩を乞う者があれば情状の文書とともに提出せよ」《三国志魏書明帝紀》 秋七月、高句驪王の宮が孫權の使者である胡衛等の首を斬って、幽州に参上した《三国志魏書明帝紀》 甲寅,太白が軒轅大星を犯す《三国志魏書明帝紀》 冬十月己卯、洛陽宮に還る《三国志魏書明帝紀》 十月甲申、大辰に流星があった《三国志魏書明帝紀》 十月乙酉、又東方に流星《三国志魏書明帝紀》 十一月己亥、彗星が見られ、宦者天紀星を犯す《三国志魏書明帝紀》 十二月癸巳、司空陳群が薨ず《三国志魏書明帝紀》 誕生者 死没者 陳群:司空 董昭:司徒
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/72.html
220年 建安二十五年→延康元年(漢)/黄初元年(魏) 皇帝 劉協(漢献帝)→廃位(山陽公) 曹丕(魏文帝) 皇后 曹節(曹操の娘)→廃位 三公(漢) 魏王:曹操→曹丕→(空位) 漢 魏 丞相:曹操→曹丕→(空位) 相國:華歆(前御史大夫) 御史大夫:華歆→王朗(前大理)/張音 太尉:賈[言羽](前大中大夫) その他の要職(漢) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:夏侯惇(前前将軍・220)→(死去) 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:? 地方官 荊州牧:孫権 主な事件 建安二十五年春正月庚子(1月23日),魏王の曹操が薨去した。曹操の子の曹丕が御位を継いだ。《後漢書孝献帝紀》使持節御史大夫の華歆は丞相の印綬、魏王の璽紱を奉って曹丕に授けた。卞王后を尊んで王太后とした。《三国志魏書文帝紀》魏志に曰く曹操は享年66歳。 二月丁未朔(2月1日)、日食があった。《後漢書孝献帝紀》 二月已卯,前将軍の夏侯惇を大将軍と為す。濊貊、扶餘の単于、焉耆、于闐の王が皆奉獻の使者が来る《三国志魏書文帝紀》 二月丙戌、史官は重、黎、羲、和の職務を修め、欽若昊天、歷象日月星辰をもって天を奉る時、奏上するよう命じた。《三国志魏書文帝紀》 二月丁亥、故尚書僕射の毛玠、奉常の王脩、涼茂、郎中令の袁渙、少府の謝奐、万潜、中尉の徐奕、国淵等は、皆朝廷に忠直で仁義を踏履したが、早くに世を去った。子孫を愍み、その男子を皆郎中と為す《三国志魏書文帝紀》 二月壬戌(2月16日)、大中大夫の賈[言羽]を太尉に、御史大夫の華歆を相國に、大理の王朗を御史大夫とする。散騎常侍、侍郎を各四人置く。宦人は諸署令を過ぎる官を得られないとし、金策に著すよう令し、石室に蔵した《三国志魏書文帝紀》 三月、改元し、延康と為す。《後漢書孝献帝紀》 三月庚戌、魏書の庚戌の令に言う、関所、津は通商の為にあり、池苑は災荒から守るためにある。重税を設けるのを禁ずる。民の便にならないためである。また池に網を張るのを禁じるのを除く。関所、津の税を軽くし、皆10分の一に戻せ。《三国志魏書文帝紀》 三月辛亥、諸侯王、將相に粟萬斛、帛千匹を下賜する。金銀には各々格差があった。使者郡國に使者を循行させ、道理に反して暴虐を働く者のその罪を挙げよ《三国志魏書文帝紀》 夏四月丁巳、饒安県で白い雉を見たと言い伝わった。注に引く魏書に曰く饒安県は田租を、勃海郡の百戶に牛酒を賜り、大いに三日の間宴を催した。太常は宗廟に太牢を祀った《三国志魏書文帝紀》 四月庚午(4月25日)、大将軍夏侯惇が薨ず《三国志魏書文帝紀》王は素服を着て[業β]の東城門に御幸し、發哀した《三国志魏書文帝紀に引く魏書》 五月戊寅(5月3日)、献帝は王に皇祖の太尉(曹嵩)を太王とし、夫人の丁氏を太王后と追尊するよう命じた。王子の曹叡を武德侯に封じた。《三国志魏書文帝紀》侍中の鄭称を武德侯の傅と為す《三国志魏書文帝紀に引く魏略》曹叡はこのとき年十五《三国志魏書明帝紀》 五月、馮翊の山賊鄭甘と王照が降伏し、皆列侯に封じられた。《三国志魏書文帝紀》 酒泉の黃華、張掖の張進等が各々太守を殺し叛く。金城太守の蘇則が討伐し、張進を斬り、黃華(後に兌*州刺史となる)を降す。《三国志魏書文帝紀》 六月辛亥(6月7日)、東郊に兵を集合させる。《三国志魏書文帝紀》 六月庚午(6月26日)、遂に南征に動く。《三国志魏書文帝紀》王が出征の際、度支中郎將で新平の霍性が上疏して諫めた。上疏を見た曹丕は怒って之を殺す。しかし後で悔やんで追わせたが及ばなかった。《三国志魏書文帝紀に引く魏略》 秋七月庚辰(7月6日)、令して「百官有司はその職務に務め規範に則って諫め、将軍は陳軍法を詳らかにし、朝廷の士は制度を明らかにし、牧太守は政事について申し述べ、学者は六藝を考察せよ。私は兼覽するだろう」。《三国志魏書文帝紀》 孫権が奉獻の使者を遣わし、蜀の将軍の孟達は兵を率いて降伏してきたので新城太守を領させた。武都の氐の王の楊僕が人民を率いて内属し漢陽郡に居した。《三国志魏書文帝紀》 七月甲午(7月20日)、軍は[言焦]に宿営し、六軍及[言焦]の父老・百姓は邑の東で大いに饗宴する。令して[言焦]は霸王の邦にして真人を出だした。[言焦]の租稅を二年免じる。三老吏民は寿ぎ、日が暮れて止んだ。《三国志魏書文帝紀》 七月丙申(7月22日)、魏王は親しく[言焦]陵を祀った。《三国志魏書文帝紀》 八月、石邑県で鳳皇が集ったと報告があった。《三国志魏書文帝紀》 冬十月癸卯、令して曰く「諸將の征伐に従軍し士卒の死亡者でいまだ収容されていないのを甚だ哀しむ。よってその郡国に告げ、小棺を支給し収め弔い、家に送って官は祀りを設けるように。」《三国志魏書文帝紀》 丙午、行軍は曲リに至った。《三国志魏書文帝紀》 冬十月乙卯、皇帝の劉協は遜位し、魏王の曹丕が天子となった。劉協を奉って山陽公と為し、邑一万戸、位は諸侯王の上にあり、奏上の際には臣と称さずともよく、受詔の際の拝せずともよい、また天子の車服、天地を祀ることを許され,宗廟、祖、臘はすべて漢制の如くであった。都は山陽の濁鹿城である。王に封じられていた四皇子は、皆降って列侯と為す。《後漢書孝献帝紀》公卿士人を召して、高廟を祀って告げ、兼御史大夫張音に璽綬を奉らせ冊をもって禅位を告げさせた。繁陽に壇を築き、庚午、曹丕は壇に登って帝位を受けた。百官は陪席した。延康を黃初と改元した。大赦を下した。《三国志魏書文帝紀》特集:禅譲 誕生者 死没者 ▲PAGE TOP 219年<< >>221年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/190.html
<魏 252年> <蜀漢 252年> <呉 252年> 252年 太元二年→神鳳元年→建興元年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝)→(死亡)→孫亮 皇后 潘氏→(死亡)→ 皇太子 孫亮→(空位) 三公(呉) 太傅:→諸葛恪(大将軍) その他の要職(呉) 太常:滕胤 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:呂岱(前上大將軍) 大将軍:諸葛恪(前威北將軍) 驃騎将軍:朱據? 車騎将軍:? 衛将軍:→滕胤 上大將軍:呂岱(前鎮南將軍)→? 主な事件 二年春正月、前の太子の孫和を立てて南陽王と為し、長沙に居住させる。子の孫奮を齊王と為して武昌に、子の孫休を瑯邪王と為し虎林にそれぞれ居住させる。《三国志呉書呉主権伝》 二月、大赦。改元して神鳳。《三国志呉書呉主権伝》 皇后の潘氏が薨ず。《三国志呉書呉主権伝》 諸將吏は幾度か王表を訪れ福を請う。王表は亡去する。《三国志呉書呉主権伝》 夏四月、孫權が薨ず。時に年七十一。諡して大皇帝。《三国志呉書呉主権伝》 四月、孫權が薨じ、太子の孫和が即ち帝位に着く。大赦。改年する。是歲は魏の嘉平四年である。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 秋七月、孫権を蔣陵に葬送する。《三国志呉書呉主権伝》 建興元年閏月、諸葛恪を太傅と為し、滕胤を衛將軍領尚書事と為す。上大將軍の呂岱を大司馬と為す。諸文武で官位にあるものは皆進爵班賞があった。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 冬十月、太傅の諸葛恪が軍を率いて巢湖を渡り、東興に城を築く。將軍の全端に西城を守らせ、都尉の留略に東城を守らせた《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 十二月朔丙申、大風雷電《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 十二月、魏は將軍の諸葛誕、胡遵等に步騎七萬を率いさせて東興を囲む。將軍の王昶が南郡を攻める。母*丘儉が武昌に向かう。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 十二月甲寅、諸葛恪は大兵をもって赴き、戊午、兵は東興に到着して交戰する。大いに魏軍を破り、將軍の韓綜、桓嘉等を殺す。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 是月、雷雨。天災で武昌の端門が壊れ、內殿も壊れる。これを裴松之によれば、孫權が赤烏十年に詔して武昌宮の材瓦を建康宮を修築する際に移したが猶端門內殿は残っていた。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》諸葛恪は遷都の意志があり、更に武昌宮を起こした。今災いがあったのは恪が新たに作った所である《三国志呉書三嗣主伝孫亮に引く吳錄》 誕生者 死没者 孫権:大皇帝 注 ▲PAGE TOP 251年<< >>253年